「中山孝太郎」の版間の差分

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広島在住。広島県立広島国泰寺高等学校。法政大学文学部卒。文学士。産業能率大学長上野一郎の下、能率学修める。東京大学大学院法学政治学研究科 地方自治法科目単位取得済。東京銀杏会会員<ref>[https://tokyo-uni-dousoukai-rengoukai.org/alumni/tokyo/]東京銀杏会会員</ref>。法政大学校友会会員<ref>[https://www.google.co.jp/search?q=%E6%B3%95%E6%94%BF%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%8F%8B%E4%BC%9A&ei=ANrnYP6BPfKD1e8P8sa9wAk&oq=%E6%B3%95%E6%94%BF%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%8F%8B%E4%BC%9A&gs_lcp=Cgdnd3Mtd2l6EAxKBAhBGABQAFgAYP8UaABwAHgAgAF1iAF1kgEDMC4xmAEAqgEHZ3dzLXdpesABAQ&sclient=gws-wiz&ved=0ahUKEwj-geexnNXxAhXyQfUHHXJjD5gQ4dUDCBE]法政大学校友会会員</ref>。ー 年、[http://www.bungeika.or.jp/links.htm 日本文藝家協会]会員。- 年、[http://bungeikan.jp/domestic/search/author/?author=nagyou 日本ペンクラブ]会員。
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広島在住。広島県立広島国泰寺高等学校。法政大学文学部卒。文学士。産業能率大学長上野一郎の下、能率学修める。東京大学大学院法学政治学研究科 地方自治法科目単位取得済。[https://tokyo-uni-dousoukai-rengoukai.org/alumni/tokyo/ 東京銀杏会]会員</ref>[https://www.google.co.jp/search?q=%E6%B3%95%E6%94%BF%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%8F%8B%E4%BC%9A&ei=ANrnYP6BPfKD1e8P8sa9wAk&oq=%E6%B3%95%E6%94%BF%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%8F%8B%E4%BC%9A&gs_lcp=Cgdnd3Mtd2l6EAxKBAhBGABQAFgAYP8UaABwAHgAgAF1iAF1kgEDMC4xmAEAqgEHZ3dzLXdpesABAQ&sclient=gws-wiz&ved=0ahUKEwj-geexnNXxAhXyQfUHHXJjD5gQ4dUDCBE 法政大学校友会]会員</ref>。ー 年、[http://www.bungeika.or.jp/links.htm 日本文藝家協会]会員。- 年、[http://bungeikan.jp/domestic/search/author/?author=nagyou 日本ペンクラブ]会員。
1980年、安芸文学同人<ref>[http://www.hca.cc/06member-f/f-01.html]安藝文學同人。</ref>、1958年/昭和33年5月設立。<ref>[http://www.hca.cc/06member-f/f-01.html]安芸文学設立。1958年(昭和33年5月に設立</ref>
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1980年、[http://www.hca.cc/06member-f/f-01.html 安藝文學]同人。</ref>、1958年/昭和33年5月設立。<ref>[http://www.hca.cc/06member-f/f-01.html]安芸文学設立。1958年(昭和33年5月に設立</ref>
  
  

2021年7月9日 (金) 14:51時点における版

なかやま こうたろう
中山 孝太郎
[[ファイル:|0|]]
本名 上野誠治
別名 -
生年月日 1949年12月16日
没年月日 月日
出生地 広島在住
死没地
国籍
民族 -
身長
血液型
職業 小説家、フリーライター
ジャンル 純文学
活動期間 1985年
活動内容
配偶者
家族
公式サイト
主な作品
『争点』

『藪を這う』

『気になる紐と首』

受賞
コスモス文学新人賞
備考
テンプレート

中山 孝太郎(なかやま こうたろう、本名:上野誠治、1949年 - )は、日本小説家である。


来歴

広島在住。広島県立広島国泰寺高等学校。法政大学文学部卒。文学士。産業能率大学長上野一郎の下、能率学修める。東京大学大学院法学政治学研究科 地方自治法科目単位取得済。東京銀杏会会員</ref>。法政大学校友会会員</ref>。ー 年、日本文藝家協会会員。- 年、日本ペンクラブ会員。 1980年、安藝文學同人。</ref>、1958年/昭和33年5月設立。[1]


「広島西飛行場[2]存続の危機脱出変遷史」[3]96年12月16日東洋図書出版発行。広島市教育委員会から教育用として採用され、県と市や市内の各図書館へ納品。一部書店では売り上が上位になった。 1998年「第68回コスモス文学新人賞」(長崎市のコスモス文学の会主催)小説部門に「憔悴した点」が決定し、受賞。 1998年「第68回コスモス文学新人賞」ノンフイクション部門に「揺れる灯」が佳作に選ばれ、受賞。 2001年1月31日に「脳裏を刳る映像(2)」が愛知県土地家屋調査士会の「地図読み人」に採用され、全文が掲載された。 1998年9月彩図社[4]のぶんりき賞で小説「魚うお」が雑誌に全文が掲載された。 2000年4月同文書院[5]のまとりた賞で小説「現れた情景」が雑誌に全文が掲載された。 

本名「上野誠治」ペンネーム「中山孝太郎」[6]の名前の由来は下記の複合的要因による。

長崎の「上野彦馬」は日本における「最初期写真家」であり、「日本写真の開祖」として知られる。[7][8][9] [10][11][12][13][14][15][16][17][18] 産能短期大学創始者「上野陽一[19][20][21][22]の伯父に当たる。   陽一が最初に手掛けた能率指導は1921年(大正10年)化粧品最大手「中山太陽堂」であった。創業者は 「中山太一」である。[23][24][25][26][27]   陽一の子ども「上野一郎[28][29][30][31]は産能大学長で、上野誠治の師匠である。この様な経緯をとらえると、上野誠治のペンネーム命名は、陽一先生が能率指導した、企業の化粧品最大手「中山太陽堂」創業者「中山太一」の名前に授かる方針で「中山太一」で決まりであったが、あまりにも偉大で、彼、上野誠治が気が引けたということで、変更案として中山太一の「中山太」と上野一郎の「一」ではなく「郎」でミックスし、ペンネームを「中山太郎」とするであったが、また上野誠治が、語呂を良くするため、頭に「孝」を加えて「中山孝太郎」として命名しているというエピソードがある。 また、彼自身はカメラ愛好家の写真家でもあり、ウエノスタジオのカメラマンでもある。

後に中山孝太郎が長崎市のコスモス文学の会主催(平成10年/1998年)第68回小説部門に「憔悴した点」でコスモス文学新人賞を受賞した。長崎の「上野彦馬」との見えない紅線があったのであろうか。

作風

往時

幾多の困難があった。そんな中、短編、中篇の純文学小説を書き続け、数多くの作品がたまるが、中々日の目を見なかったが、1998年、人間の煩悩や心の葛藤を描きぬいた僅か「1センチ4ミリ」を争う世界の作品が、やっと芽生えた。98年、第68回コスモス文学新人賞(長崎市のコスモス文学の会主催)の小説部門に「憔悴した点」が決定し、受賞。[32]

近作  

これまでになかったモノ、バーチャルの世界と現世とが融合しており、他人とは違う世界が見えている小説が主。現実と妄想の境界が入り乱れ、引き込まれる。因って読み手の頭が混乱するであろう。この作者は、ここまでも書くのかというクレイジーな感じで「藪を這う」なんかはまるで映画を観ているようで、少し気が違う面には動揺するが、中々変わっていて、近頃は珍しい。「藪を這う」と「争点」は、ここに掲載されている代表作品。

文体  

初期の小説は一つひとつの文字を書く筆にいきおいを感じながら、それなりのモチベーションで書きあげ、同人会で発表するが中々馴染めない面があった。この時期にある程度の量を書き上げていたが、自暴自棄になっていた。因ってかなりのブランクが発生し、まだ初期の段階で、もう筆を折ろうかと思っていたという。しかし、周りの連中から、これからが良くなると言われ、思いとどまった。自称の作家が言った。「お前の小説を読んだが、吐き気がした。小説の体(てい)を知らないのだろう。俺は国立大学の同人会に所属していた。もう息子は小説家になった。勿体ないが、俺が書いた100数十作の小説は、1作あたり全部100枚以上はあるが、そのうちどれか1作だけを参考に見せてやる」理不尽で失礼千万だ。小説の体を言う前に手前はどうか、支離滅裂な説教でうんざりとしたという。こいつは小説の書き方が一つしか無いのだと確信していた様だという。小説の中にも絵や図などが入っているのもある。文章間に詳しい説明の文章が入っているのも沢山あるようだ。こいつは本を読んでいないのだろうかとも思ったという。1人称(私小説)や3人称の書き方もあれば、まだ書き方は沢山ある。箇条書きもある。ひらがなやカタカナだけのものもある。また横書きもある。つまり何でも良いという。主題やテーマがハッキリとしていて、それに沿って書き上げていれば問題はないようだ。水の如くいっきに流れるように書いてあるのもある。途中でいきなり回想しているのもある。彼は誹謗中傷侮辱された。しかし、批判は批判として真摯(しんし)に受けとめる。こういう意見もあるのだと感じたという。彼はいろんな作家の小説を読んでいて、どの小説のテーマもまちまちで、出現の仕方も違うという。もちろん文体も違うだろう。かなり自由に書いていて、これらはすべて「小説の体」を成しているという点では共通しているのであろう。もちろんテーマがあってストーリーがあって描写があるのだ。支離滅裂になってはもちろん良くない。質はもちろん大事で、数を書いて会得していくことも大事なのであろう。書き続けることで、なんだ、こんなことで悩んでいたのかはままある。因って小説の体をなしていないとは、そもそも文章自体に乱れ、稚拙で支離滅裂などで破綻(はたん)していることであるという。

賞歴

など

  • 1996年12月に「広島西飛行場存続の危機脱出変遷史」[33][34]を発行。
  • 広島市教育委員会から教育用として採用され、県と市へ納品した。
  • 1998年、「第68回コスモス文学新人賞」(長崎市のコスモス文学の会主催)小説部門に「憔悴した点」が決定し、受賞。
  • 1998年、「第68回コスモス文学新人賞ノンフイクション部門」に「揺れる灯」が佳作に決定し、受賞。
  • 1999年9月文藝春秋の雑誌に「第2回草枕文学賞」の中間発表があり、名前が載った。主催は熊本県『草枕文学賞』実行委員会。後援は文藝春秋。全国各地及び海外から総数769編の応募があり、80編が予選を通過した。文学賞の最終選考には残ったが、賞は貰えなかった。草枕文学賞を受賞すると、その作品は文学界の雑誌に掲載され、そして必然的に芥川賞にノミネートされるのだが残念だった。その小説は「藪を這う」。後に改稿後関西文學に掲載された。さらに改稿後安藝文學にも掲載された。その小説は「日本ペンクラブ電子文藝館」に所蔵されている。
  • 1999年4月号の小説現代に「第67回小説現代新人賞」の予選発表があった。応募総数1615編で予選通過者数は114名。これに名前が載った。その作品は改稿後「争点」で安藝文學に掲載された。後に「日本ペンクラブ電子文藝館」に所蔵されている。
  • 2001年1月31日に「脳裏を刳る映像(2)」が愛知県土地家屋調査士会の「地図読み人」に採用され、全文が掲載された。
  • 2001年「第18回織田作之助賞」に「気になる紐と首」が応募総数503篇で第1次予選を通過し、さらに第2次予選も通過した。50篇が第2次予選を通過。
  • 2002年に改稿後「第3回関西文學新人賞」で第1次予選を通過し、さらに第2次予選も通過した。応募総数190篇で第2次予選通過作は23作。2012年7月さらに改稿後安藝文學に小説「気になる紐と首」が掲載された。現在は「国立国会図書館」に所蔵されている。
  • 1998年9月彩図社のぶんりき賞で小説「魚うお」が雑誌に全文が掲載された。
  • 2000年4月同文書院のまとりた賞で小説「現れた情景」が雑誌に全文が掲載された。
  • 2003年6月新風舎出版賞第20回、小説で出版奨励賞受賞。

その他諸々予選は通過しているが、中期はブランクがあってあまり応募はしていない。後期、最近は体調を悪くし、あまり書いていないが、作がかなりたまってきている。が、推敲校正が必要だという。しかし、近いうちに発表予定でもあるという。

著作

コラムなど

  • 「予算消化工事税金無駄遣い」93.2.25中国新聞
  • 「選挙の資金は国民が出資を」93.3.4 中国新聞
  • 「証人喚問制度もっと厳正に」93.3.16中国新聞
  • 「広島らしさを物産館に望む」96.10.6中国新聞
  • 「専門学校設け広大跡地活用」96.10.20中国新聞
  • 「小企業の支援に商工会議所充実を」96.11.16中国新聞
  • 「運転中の通話について」96.12.19中国新聞
  • 「政治や経済の勉強」97.1.30朝日新聞
  • 「『毛利元就』もっと方言を望む」97.2.13読売新聞
  • 「真の『上得意様』へのサービス」97.2.14毎日新聞
  • 「W杯招致運動もうやめよう」97.2.18中国新聞
  • 「『一人くらい』を返上し投票を」97.3.25中国新聞
  • 「トンネル内の照明を整備せよ」97.12.18産経新聞
  • 「納得できない可部線の廃止」98.4.19中国新聞
  • 「南道路県と市協調を」04.6.19中国新聞
  • 随筆など
  • 「私の健康法」97.1.27中建日報
  • 「地球は生命体」97.3.27川柳ひろしま
  • 「さばを読む」97.4.5川柳ひろしま
  • 川柳など
  • 「ガラス細工」00.4.1葉文館出版
  • ノンフイクションなど
  • 「広島西飛行場存続の変遷史」96.12.16東洋図書出版 著書
  • 「広島のデルタを歩くリベラリスト」99.9.9タニシ企画印刷 著書
  • 小説など
  • 「脳裏を刳る映像(1)」00.1.1ウエノ書房 著書
  • 「三角関係」97.11.1ビジネスセミナー
  • 「魚(うお)」98.9.1採図社
  • 「藪を這う」00.2.1関西文學
  • 「現れた情景」00.4.1同文書院
  • 「脳裏を刳る映像(2)」01.1.31地図読み人
  • 「気に為る紐と首」12.7.10安藝文學
  • 「争点」15.8.10安藝文學

その他寝かせている小説などがあるが推敲校正が必要で未発表作品。

代表

「争点」     日本ペンクラブ電子文藝館   

「藪を這う」   日本ペンクラブ 電子文藝館

所属

日本文藝家協会

日本ペンクラブ

安芸文学

脚注

  1. [1]安芸文学設立。1958年(昭和33年5月に設立
  2. [2]旧広島西飛行場の姿
  3. [3]『広島の交通』展示資料リスト
  4. [4]彩図社のぶんりき賞
  5. [5]同文書院のまとりた賞
  6. [6]中山孝太郎の画像など
  7. [7]上野彦馬ってどんな人!?その人物像と功績に迫る
  8. [8]薬学 上野彦馬の開眼
  9. [9]で撮影の鶏卵写真
  10. [10]上野彦馬宅跡
  11. [11]上野彦馬などの画像 
  12. [12]上野彦馬 ブリタニカ国際大百科事典 コトバンク
  13. [13]日本の写真家の始祖「上野彦馬」、ゆかりの地
  14. [14]上野彦馬生誕地と撮影局跡(長崎市)
  15. [15]上野彦馬【写真家】の子孫と作品、写真館を紹介!日本最初の戦場カメラマン
  16. [16]日本写真界の開祖として 上野彦馬は、1838年長崎市銀屋町で生まれます。彦馬の父、俊之丞が出島のオランダ商品を通して写真機を初めて輸入したのが1843年
  17. [17]古写真に見る西南戦争の記録-「彦馬が見た西南戦争」
  18. [18]上野(彦馬)家墓地 市指定史跡 指定年月日 平成18年1月10日 所在地 長崎市伊良林3丁目4番
  19. [19]写真師・上野彦馬の弟の長男、産業能率短期大学創始者・上野陽一
  20. [20]上野陽一の日本における産業能率研究の歴史です
  21. [21]日本にマネジメントを「導入した父」産業能率大学創始者・上野陽一
  22. [22]上野陽一
  23. [23]東洋の化粧王 中山 太一なかやま たいち 明治・大正・昭和時代の実業家 1881(明治14)年〜1956(昭和31)年
  24. [24]創業者中山太一 化粧品業界の巨星と呼ばれた中山太一は、明治14年(1881年)山口県豊浦郡滝部村に生まれた。明治36年4月3日(1903年)、神戸市花隈町において化粧品の卸商「中山太陽堂」を創業。創業から3年後、製造業に転身をはかる。外国人技師を招聘して開発にあたらせ、化学研究所や近代的化粧品工場を設立して独自の美身剤の開発や作業の能率化を図った。その一方では、中山文化研究所を設立し、幅広いメセナ活動を実施した
  25. [25]中山太一の年表
  26. [26]日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース 中山太一 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)
  27. [27]時代の先を行く感性で文明開化の日本を彩った「東洋の化粧品王」中山 太一 (1881~1956年)
  28. [28] 上野一郎
  29. [29] 上野一郎の上野彦馬
  30. [30]上野陽一先生の事上野一郎座談会
  31. [31]上野一郎などの画像
  32. [32]1998年、第68回コスモス文学新人賞、小説部門に「憔悴した点」が決定し、受賞している
  33. [33]旧広島西飛行場の映像
  34. [34]広島市 長船 おさふね 友則 と も の り 氏収集資料仮目録 ]

外部