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(三和銀行)
 
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| style="text-align: center; background-color: #f0f0f0"|代表者
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| style="text-align: center; background-color: #f0f0f0"|店舗数
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| style="text-align: right;"|314店(海外22店)<br />
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| style="text-align: center; background-color: #f0f0f0"|設立日
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| style="text-align: right;"|[[1933年]][[12月]]
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| style="text-align: center; background-color: #f0f0f0"|従業員数
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| style="text-align: right;"|12,331人
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| style="text-align: center; background-color: #f0f0f0"|総資産
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| colspan="2" style="text-align: center; background-color: #f0f0f0"|本店
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| colspan="2" style="text-align: center; margin: 0 auto;"|[[画像:Bank-of-Tokyo-Mitsubishi-UFJ-Osaka-01.jpg|270px]]
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| style="text-align: center; background-color: #f0f0f0"|所在地
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| colspan="2" style="border-style: none; text-align: right;"|[[大阪府]][[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]伏見町三丁目5-6
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| colspan="2" style="font-size: smaller;"|特記事項 : いずれも[[2001年]]9月現在
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株式会社'''三和銀行'''(さんわぎんこう、[[英語|英称]]:''The Sanwa Bank, Limited'')は、在阪3行が合併して設立された[[都市銀行]]である。本店は[[大阪府]][[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]](現在の[[三菱東京UFJ銀行]][http://www.mapion.co.jp/c/f?uc=4&ino=BA590166&pg=1&grp=bk_mufg 大阪営業部])に置かれていた。[[UFJグループ|三和グループ]]の中核であった。
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また、[[メガバンク]]再編前、[[全国銀行協会]]会長を輪番で担当する都銀大手6行(ほかは[[東京三菱銀行]]・[[住友銀行]]・[[第一勧業銀行]]・[[富士銀行]]・[[さくら銀行]])の中で、三和銀行は唯一[[地方銀行]]の業容が拡大した銀行であった。
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2002年に[[東海銀行]]と合併し[[UFJ銀行]]となった。現在は、東京三菱銀行と合併し三菱東京UFJ銀行となり、同時に法人格も消滅した。
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== 歴史 ==
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=== 戦前 - 在阪3行の合併で発足 ===
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三和銀行は、[[1933年]]12月、いずれも本店を大阪に置く、[[三十四銀行]]、[[山口銀行 (大阪)|山口銀行]]、[[鴻池銀行]]の3行合併により創立された。
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鴻池銀行は、[[鴻池財閥|鴻池家]]により[[1877年]]5月に設立された[[第十三国立銀行]]に端を発し、三和銀行はこのときを創業日にしていた。鴻池家は[[江戸時代]]初期の[[1656年]]に[[両替店]]を開いており、歴史は三百数十年に及び、国際的にも極めて古い金融業者であった。三和銀行のロゴの下に「'''since 1656'''」と書かれていたのはこのためである(以前は'''since 1877'''だった)。
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山口銀行は大阪・[[山口財閥]]の中心企業で、[[江戸時代]]末期の[[1863年]]開業の布屋両替店が源である。山口家は[[1879年]]4月に[[第百四十八国立銀行]]を設立し、これを山口銀行が継承した。
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三十四銀行は大阪の繊維関係の商人である[[岡橋治助]]、原嘉助、野田吉兵衛、永井仙助、村上嘉兵衛、渡辺庄助、山口善五郎の7人が[[1878年]]3月に設立した[[第三十四国立銀行]]を起源とし、堅実経営に徹しながらも中小工業に対する長期金融を開始するなどの特色があった。
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[[昭和]]初期の[[昭和金融恐慌]]下、[[三井銀行|三井]]・[[三菱銀行|三菱]]・[[住友銀行|住友]]・[[富士銀行|安田]]の[[財閥]]系銀行がシェアを伸ばす中で、前述3行も他の小銀行併合などにより、これらに次ぐ有力銀行としての地位を固めていが、営業地盤を同じくする3行の競争は望ましくないとして、合併へ進んだ。新銀行は本店を大阪市東区の旧鴻池銀行本店に置き、頭取には[[日本銀行|日銀]]出身の[[中根貞彦]]が就任。設立直後の年末の第1回決算で預金高は10億円を超え、日本の普通銀行のトップに立った。しかし、その後の、大阪の経済的地盤の低下や、在京銀行による中小銀行併合等により、預金ランキングを落としていく。
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合併行の行名選定にあたっては、三友・三光・三山・三吉・三衛・三栄・三協など多数の候補名があったが、中根頭取が三和を選んだ理由として、後日、「三和の意は文字通り三行が和することを意味する」と強調した。また、行内史『三和銀行の歴史』によれば、創立当時、三和の三は三十四の三、和の扁である禾は鴻池新田の稲を意味し、和の旁の口は山口の口からとったいう説明もなされている。なお、異説としてこの合併の推進を図った当時の[[日本銀行総裁]][[土方久徴]]の意向が働いたとする説がある。
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=== 戦後 - ピープルズバンク路線 ===
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終戦直前、第2代頭取に日銀出身の[[岡野清豪]]が就任。戦後、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]](連合国軍総司令部)は当初、同行を財閥銀行と同列に扱い、[[制限会社]]の指定を検討したが、非財閥系・'''ピープルズバンク'''であるという訴えをねばり強く続けた。事実、三和銀行は大阪・船場の繊維産業への融資を中心にしていたため、戦時中の軍需融資も少なく、指定金融機関の軍需融資先数でも最も多い[[日本興業銀行]]の146社に対し三和銀行は64社にとどまっていた。このため、制限会社指定の決定は取り消された。
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[[1947年]]2月、第3代頭取に同じく日銀出身の[[渡邊忠雄]]が就任、戦後の混乱期の中、経営再建に乗り出す。[[1948年]]3月、三和銀行は[[金融機関再建整備法]]に基づき、[[軍需補償]]打切に伴う損失補填のため資本金を1538万円に減資したが、同年10月には10億円に増資し新発足した。行名も不変で、”親しさも名も変わらぬ三和銀行”をスローガンに強力な[[預金]]増強運動を展開し、終戦直後には6位だった預金順位を、[[1949年]]3月には3位とした。また[[高度経済成長]]下、同行は「ピープルズバンク」を基本理念とした経営基本戦略を積極的に推進し、[[1955年]]3月、全国どこでも出し入れできる普通預金のネットサービス預金を創設した。国際化の面では、[[1953年]]1月、[[サンフランシスコ]]支店を開設したのに続き、[[1957年]]には[[ロンドン]]支店を開設している。なお、[[1959年]]には、当時の大蔵省の信託分離政策に沿い、三和と[[神戸銀行]]信託部門、[[野村証券]]証券代行業務部門及び投資管理業務部門を承継して、[[UFJ信託銀行|東洋信託銀行]]を発足させている。この頃から、融資系列における繊維偏重路線は、その斜陽化によって軌道修正を迫られていく。
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[[1960年]]5月、初の生え抜き頭取として、第4代頭取に[[上枝一雄]]が就任、会長となった渡漫と共に、「ピープルズバンク」([[リテール]]バンキング)路線を推進する。1960年12月には最初の[[消費者金融]]ドリームローンの開始、[[1963年]]には資金使途自由な暮しのローンを創設するなど、消費者金融の開発に努力した。また、[[1963年]]には[[ニューヨーク]]、[[1964年]]には[[香港]]と、海外に相次いで支店を設置し、国際化の進展と共に[[外国為替]]業務の強化に力を注いだ。[[1961年]]には、[[三菱UFJニコス|日本信販]]と共同で「日本クレジットビューロー([[ジェーシービー|JCB]])」(日本で2番目の[[クレジットカード]]専業会社。1番目は日本[[ダイナースクラブ]])を設立。1964年に日綿実業(現[[双日]])と共同で、日本で二番目の[[リース]]会社「オリエント・リース」(現[[オリックス (企業)|オリックス]])を設立している。この頃、[[企業集団]]として、融資系列を中心に[[みどり会]]を結成し、新興企業への融資を強めていく。
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[[1971年]]9月、第5代頭取に就任した[[村野辰雄]]は、「ピープルズバンク」路線を徹底的に強化するため全行員に「お客さまのお役に立つ銀行、ユア・バンク」の考えに徹するよう強調、個人預金日本一を実現した。また、村野は国際畑であったため、国際合同銀行および加州三和銀行の設立、海外各地の拠点開設、ブラデスコ投資銀行への資本参加、中国との円元決済問題での合意など、新機軸を次々と打ち出した。[[1976年]]、第6代頭取に[[赤司俊雄]]が就任、赤司は「人間尊重」を経営理念とし、「ひと味違うピープルズバンク」の実現を目指した。その一環として、[[品質管理|QC]]活動を銀行業務に導入している。またこの頃、三和の弱点だった[[首都圏]]の基盤強化を目的に[[富士銀行]]との合併を画策するも、当時の[[大蔵省]]の反発に遭い頓挫してしまう。[[1982年]]、第7代頭取に[[川勝堅二]]が就任、海外経験の長い川勝は、銀行業務の新展開を「国際化・証券化」に向けた。川勝のもとに、三和銀行は「ピープルズバンク重視」に加え、「[[インベストメントバンク]]重視」を打ち出し、両者を統合した「[[ユニバーサルバンキング]]」を目指した。アメリカの大型リース会社や証券会社の買収など思い切った海外戦略を展開、国内でも証券業務を強化し、人材をインベスト部門へ傾斜投入した。また、この頃、[[シンクタンク]]の[[三菱UFJリサーチ&コンサルティング|三和総合研究所]]を設立した。
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=== バブル経済と崩壊 - メガバンク再編へ ===
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[[1988年]]、第8代頭取に[[渡辺滉]]が就任、渡辺は、新時代にふさわしい、「最新にして最強、世界のユニバーサルバンクを目指そう」と提唱し、「3つのS-ストレングス、ストラテジー、スペシャリテイー」をコーポレート・カルチャーに据えた。また、大規模な機構改革を行い、企画・秘書・人事中枢部門に権限を集中させ、同時に、自らの出身校である[[一橋大学|一橋大]]と[[京都大学|京都大]]出身者、中でも秘書室長である中村明を重用した。中村は、[[高杉良]]の小説『[[金融腐蝕列島]]』で「カミソリ佐藤」と呼ばれ恐れられる銀行マンのモデルとも言われ、頭取の渡辺に「私の思う通りにやらせてもらえば、三和を収益ナンバーワンにしてみせる」と豪語、行内で“7奉行”と呼ばれた若手秘書役(この一人に、UFJ銀行最後の頭取となる[[沖原隆宗]]がいた。)を補佐官として登用し、権勢をふるう中[[1992年]]、業務純益、経常利益、当期利益の3部門でトップとなり、三冠王を実現した。この間、首都圏主要駅周辺に[[現金自動預け払い機|ATM]]網を整備し、この頃店舗数は有人・無人含め1,000を超えることになる。この頃、[[バブル崩壊]]の影響を受け、多くのスキャンダルが噴出した。1992年10月、料亭経営者の[[尾上縫]]の架空預金証書事件では、経営難に陥った[[東洋信用金庫]]を救済合併し、東洋信金の一部店舗などを引き継いだ。
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[[1994年]]、第9代頭取に[[佐伯尚孝]]が就任。佐伯は「世界をリードするベスト・ユニバーサルバンク」を経営目標に掲げたが、実際にはバブル崩壊による不良債権処理に追われる事になる。また、経営環境の悪化と共に、行内における負の面が出始めてくる。もともと、三和は、都銀の中でも地方銀行を出自としていたため、富士(旧安田)、第一勧業([[1971年]]に第一と日本勧業が合併)、さくら([[1990年]]に太陽神戸と三井が合併)、住友、東京三菱([[1996年]]に東京と三菱が合併)などの旧財閥系や[[特殊銀行]]を起源とする他行に比べ優秀な新入行員確保に苦労した。この結果、行内では入行時の[[リクルーター]]を通じて、[[学閥]]内のつながりが密接になり、人事抗争を展開することになる(他行はこれを「三和の[[デオキシリボ核酸|DNA]]」と批判した)。前述の渡辺頭取時代の施策は、経営の意思決定の迅速化に成果を出したものの、学閥を中心にした側近政治の弊害に対する不満は[[1999年]]、当時の渡辺会長と佐伯頭取([[東京大学|東京大]]卒)の主導権争いで爆発し、怪文書等の流布等、陰惨を極めた。結局両者が辞任し、中間派の[[室町鐘緒]]([[名古屋大学|名古屋大]]卒)が第10代頭取(最後の頭取)となった。
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室町は、都銀の[[メガバンク]]再編の中、[[東海銀行]]との合併を進め、先行して[[2001年]]4月2日、三和銀行、東海銀行、東洋信託銀行が[[株式移転]]により株式会社[[UFJホールディングス]]を設立し、これら三行はUFJホールディングスの完全子会社となった。
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この三和銀行最後の決算は、赤字決算であったため、合併銀行-UFJ銀行初代頭取に内定していた室町は退任を余儀なくされた。2002年1月15日、三和銀行及び東海銀行が合併し、株式会社[[UFJ銀行]]となった(存続会社は三和銀行、本店は東海銀行の本店。[[2006年]]1月には、東京三菱銀行と合併して[[三菱東京UFJ銀行]]となる)。
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== 沿革 ==
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* [[1656年]] - 初代[[鴻池善右衛門]]が大阪で両替店を開業。
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* [[1877年]][[5月]] - 第十三国立銀行が鴻池両替店の建物を本店として開業。
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* [[1878年]][[3月]] - 第三十四国立銀行が開業。
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* [[1879年]][[4月]] - 山口家が第百四十八国立銀行開業。
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* [[1933年]][[12月]] - 三和銀行創立(三十四、山口、鴻池の三行合併)。
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* [[1940年]][[11月]] - 東京本部設置。
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* [[1945年]][[10月]] - 福井の大和田銀行を吸収合併。
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* [[1949年]]5月 - 東京・大阪両証券取引所に上場。
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* 1949年8月 - 京都証券取引所に株式上場。
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* [[1952年]]4月 - ピープルズバンクの路線明確化。
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* [[1959年]]3月 - 電子計算機を、金融界で初めて始動。
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* [[1960年]][[12月]] - 信託業務を東洋信託銀行(株)に譲渡。
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* 1960年12月 - ドリームローン発売。
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* [[1972年]][[1月]] - 現地法人加州三和銀行を設立。
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* [[1978年]]3月 - 三和クローバーカードローン発売。
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* [[1988年]][[2月]] - 本部組織を大幅改革し、ユニバーサルバンク体制を強化。
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* 1988年3月 - 第3次総合オンライン完成稼働。
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* [[1989年]][[6月]] - 金融先物取引等の受託業務開始。
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* [[1993年]]3月 - 国内拠点1,000店舗体制に。
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* [[1999年]] - 東洋信託銀行と三和信託銀行が合併。
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* [[2000年]]4月 - [[フィナンシャルワン]]結成。
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* [[2001年]]4月 - 三和銀行、[[東海銀行]]、[[UFJ信託銀行|東洋信託銀行]]が[[株式移転]]により株式会社[[UFJホールディングス]]を設立し、これら三行は[[UFJホールディングス]]の完全子会社となる。同年7月、東洋信託銀行と東海信託銀行が合併。
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* [[2002年]]1月 - 三和銀行及び東海銀行が合併し、株式会社[[UFJ銀行]]となる。
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== 主な融資系列 ==
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* [[UFJグループ]]各社
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* [[UFJ銀行#関連企業]]参照
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==関連項目==
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* [[三菱UFJフィナンシャルグループ]]
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** [[三菱東京UFJ銀行]]
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* [[UFJホールディングス]]
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** [[UFJ銀行]]
+
* [[フィナンシャルワン]]
+
* [[みどり会]]
+
* [[ワンサくん]]
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* [[スヌーピー]] - UFJ銀行発足まで通帳などに使用していた。
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* [[竹内力]] - 俳優になる前淡路支店で銀行員として勤務していた。
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* [[乾恒雄]] - [[オリックス]]元社長・会長。
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== 参考文献 ==
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* 『三和銀行の歴史』([[1973年]]発行の銀行史。行内及び[[経済学部|経済]]・[[経営学部|経営]]系の大学に配布)
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== 外部リンク ==
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* [http://www008.upp.so-net.ne.jp/nnkigyou/intro4.html 詳解:日本の企業集団と系列]
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{{都市銀行 (1970年)}}
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{{DEFAULTSORT:さんわきんこう}}
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[[Category:三和グループ|*]]
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[[Category:かつて存在した都市銀行]]
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[[Category:三菱東京UFJ銀行の前身行]]
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{{Wikipedia/Ja}}
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2010年4月10日 (土) 14:45時点における最新版